19世紀イギリスにおけるナイチンゲールの感染症対策と衛生改革

Infectious Disease Control and Hygiene Reforms Implemented by Florence Nightingale in 19th Century England

金井 一薫  徳島文理大学保健福祉学部 教授
Kanai Hitoe

1.はじめに

フロレンス・ナイチンゲール(1820-1910)の功績のひとつに、19世紀イギリスにおいて、的確な感染症対策を提言し、国の衛生改革をリードした点を挙げることができる。

ナイチンゲールは、近代看護の創設者、クリミアの天使などとして知られているが、実は多彩な能力の持ち主で、統計学者、近代病院建築家、首都救貧法の立案者、衛生改革者など、知られざる多くの顔を持つ。本稿では、衛生改革者としてのナイチンゲールに焦点をあて、彼女が主張し具現化した改革の姿を、以下の2点に絞って述べる。

1.クリミア戦争における兵士の死亡率の高さに着目して、その原因となった感染症の実態を明らかにし、国が行うべき具体的な感染症対策について明言した。

2.感染症が蔓延する都市における感染症対策=貧困対策について、その実態を調査し、保健医療福祉制度の土台を築くとともに、家庭を守る女性たちや看護師への啓蒙活動を行い、生命を守るためには暮らしを健康的に創り変えることが重要である点を強調した。

 以上の点を明らかにすることで、令和元年度に端を発した新型コロナウィルスとの闘いの最中にあるわが国にとって、都市における感染症対策の中心に据えるべき視点を、あらためて浮き彫りにする。

2.ナイチンゲール、英国陸軍の保健衛生改革に取り組む

(1) クリミア戦争の惨劇

 クリミア戦争は、ロシアがオスマン帝国に宣戦したことに端を発し、1854年~1856年にかけて、イギリスとフランスおよびサルデーニャが、オスマン帝国を支援して起きた戦争である。ナイチンゲールは戦地における救護活動のために、1854年10月にイギリスを出発した。戦争は1856年3月、ロシアの敗北によって終結したが、この戦争全体を通してイギリス兵の全死亡者数は1万8千人余に達した(1)。 そのうちの1万6千人余が感染症に罹患したために死亡したことが、戦後に明らかとなった。ここではまず、戦地の病院の実態を描写する。

・ナイチンゲールが派遣されたスクタリ(クリミア半島から黒海を渡ったトルコの地)の陸軍病院は、トルコ軍が兵舎として使っていた巨大な建物を病院に転用したものであり、病院の建物の床下には、粗悪な工事で作られた単なる汚水溜でしかない無蓋の下水溝が何条も走っており、それらは詰まっていて流れず、汚水は床から壁に浸み込んで湿気と悪臭を発していた。

・便所はすべて詰まったり壊れたりしていて使用不能で、そこから溢れ出した糞尿水が病室内へ流出して、床上1インチも溜まっている場所もあった。

・窓はほとんど無く、あっても締め切りであり、換気はまったくなされず、厳しい冬の季節に入っても暖房装置も燃料もなかった。

・患者たちは汚れて破れた夏物の衣類を着た切りで、ノミやシラミにたかられ、ベッドも無く、藁を詰めた麻袋を敷物の代わりとして石床に寝かされ、寒さに震えていた。

 こうした不潔と欠乏が原因で、病院ではコレラや赤痢、発疹チフス、インフルエンザなどの感染症が蔓延し、多くの傷病兵たちは、そもそも入院の原因であった外傷や疾病とは別の、これら院内に発生した感染症によって次々に倒れて、治療も看護も受けられないままに苦しみながら死んでいった。

時の戦時大臣シドニー・ハーバートの要請を受けて戦地に赴いたナイチンゲールの使命は、こうした状況を本国に細かく知らせて対策を具申すること、そして具体的な対応を現地で実施することであった。しかし現地陸軍の組織体制のなかでは、一看護監督としての立場の彼女には改革の権限はなく、彼女は自らの職務の範囲で病棟を清潔にし、厨房や洗濯場を設け、必要な物資を私費で購入し、兵士たちのベッドを整え、身体を清潔に保ち、暖かい衣類を提供し、傷の手当てをし、死にゆく兵士たちに寄り添い、本国で待つ家族を気遣い、回復期にある兵士たちへの初等教育を施し、図書室を造り、自立への途を模索するという、実に多面的な働きをして蔓延する感染症と闘い、看護活動によって多くの兵士の命と心を救った。

抜本的な感染症対策は、ナイチンゲールの働きかけによって政府から派遣された衛生委員団のメンバーによって行われた。彼らは下水道を塞いでいた動物の死骸を取り除くなどの大掃除を行い、同時に病院の大改修をも行った。両者の働きの結果、戦場の病院群には感染症対策が行き渡り、短期間のうちに全体の死亡率は激減した。最大死亡率42.7%だったものが、数か月で2.2%まで下がった。現代では想像もできない死亡率だがこの数字がクリミア戦争全体の惨劇を物語っている。

(2) 戦後検証から見えるもの―社会統計学者ナイチンゲールの指摘から

 戦地での戦後処理を全て終えて、1856年8月に帰国したナイチンゲールは、ヴィクトリア女王に拝謁したのを機に王立衛生委員会を設立し、兵士の異常な死亡率の高さを主題として、それはどこに問題があり、その責任の所在はどこにあるかを明らかにするための「戦後検証」に入った。その結果、1858年に委員会向けの「公的報告書」とは別に、陸軍大臣パンミュア卿の要請に従い900頁にも及ぶ「機密報告書」(2)を書き上げた。しかしこれはすぐには刊行されなかったので、本報告書を要約、抜粋した内容を“英国陸軍の死亡率” (3)という小冊子にまとめて私費で発刊した。この小冊子には、29点にもおよぶ統計図表が掲載されており、兵士の死亡率と健康な市民の死亡率との差を歴然と表し、兵士の異常な死亡率の原因は、不潔な環境による感染症にあることを証明した。さらに根本的な原因は英国陸軍の保健医療体制にあるとして、国家がとるべき軍の衛生対策を明確に導き出している。

 本稿では数多いナイチンゲール自作の図表の中から、2点を紹介する。

図1 陸軍の死亡率を表す図

図 1 陸軍の死亡率を表す図(4)

図1は、クリミア戦争中に亡くなった兵士の死亡率を、英国で一番不潔な都市と言われていたマンチェスターの男性の死亡率と比較したものである。右の円は戦争の始まり時点の1854年4月から1855年3月までを12分割して、各月の1,000人当たりの年間死亡率を軸上に表している。そして左の円は1855年4月から戦争終結の1856年3月までが表記されてる。この表からは、一目で1855年1月~2月の死亡率が最も高く、病院はほぼ破綻状態であったことが伺える。この数値は、同年3月に本国から派遣された衛生委員団が衛生対策を施行した後に激減していることも、左側の円からみてとれる。

図-2 野営地の人口密度とロンドンの人口密度の比較図

 

図 2 野営地の人口密度とロンドンの人口密度の比較図(5)

図2の左側の3つのグラフは、陸軍主計長官の野営計画のデータに基づいて作成されたもので、所定の地面に張るテントの数に対する相対的人口密度を表している。また右側の2つのグラフは、右からロンドン、イースト・ロンドンの人口密度を表す。いずれも1851年当時の数値から作成されている。

点(・)の数は人口密度を表す。六角形はそれぞれの人が占める平均面積を表し、点と点を結ぶ線は、接近度、すなわち身体が占める空間を含んだ人と人との間の平均接近度を表している。以下、ナイチンゲールの説明文を引用する。

「一定の地域の人口密度の問題は、きわめて重要な衛生上の原則とむすびついている。実際、この問題全体に重大な関心がはらわれてきたのである。ことに“他の条件が同じなら、所定の人口の有病率・死亡率はその人口密度に正比例する”ことが明らかになってからは。最も人口密度の高い町は、一般的に最も不健康である。熱病、コレラ、下痢、肺結核など、有力な病気は大気の汚染と関連している。人口密度が高い地域では空気の循環が悪い。また人口が密集している地域では、そうでない地域にくらべ、取り除かなくてはならない有機物のゴミの量がはるかに多いことも、言うまでもない(6)」。

 ナイチンゲールは、所定の人口密度と有病率・死亡率との関係を研究していたことがわかるのだが、その結果、「野営地の過密状態は、健康に重大な影響をおよぼしていることを、余すところなく示すであろう」(7)と述べて、陸軍の保健衛生上の問題点を指摘し、組織改革の必要性を強く説いたのであった。ナイチンゲールの見解は女王にも認められ、陸軍の衛生改革は足早に進んだ。改革は陸軍医学部の再編成にまで及んだが、成功の秘訣は、ナイチンゲールが現実の姿を的確な統計表を作成して示したことにあった。統計図表は、人々を説得するのに大いに力となった。

ナイチンゲールの感染症対策への提言は、陸軍の衛生改革を促しただけでなく、その後の一般病院や人々の暮らし方に至るまで細部に浸透することになった。ナイチンゲールは、感染症対策の要として、①換気の重要性、②過密を避けること、③家屋や手指の清潔、④清浄な水、⑤陽光の5点を特に強調している。

3.衛生改革の柱は、生活環境を健康的に整えること

(1) 貧困と死亡率は表裏一体

 国の衛生問題は、いつの時代においても“貧困”と深く関連する。第一次産業革命後の18~19世紀のイギリスは工業化が進み、工業都市における人口増加が著しかった。特に増加が著しかった都市は、ロンドン、マンチェスター、リヴァプール、バーミンガム、リーズ、ブリストル、グラスゴー、エディンバラであった。そして工業化に伴う人口の増加と並行して、都市部ではおびただしい数の死者が出ていたのである。

 工業都市における死亡率がいかに高いかを示すデータ(8)がある。

表1 地域別・階層別に見た死亡者の平均年齢地域別・階層別に見た死亡者の平均年齢

 

 

 

表1は典型的な農業地帯として、イングランドでは最小のラトランド州とイングランド南部にあってソールズベリ平原を含むウィルト州を、また工業地域としてマンチェスター、リヴァプール、ボルトン(マンチェスターの北東に隣接する工業都市)、リーズ、ベスナル・グリーン(ロンドンの一市街地域)を取り、それぞれの地域における死亡者の平均年齢を三つの階層ごとに示してある。この表から、工業都市ないし工業地域における死亡の可能性がいかに高かったかは一目瞭然であろう(9)

では工業都市に暮らす労働者、とりわけ貧困階層の暮らしはどのようなものであったのだろう。19世紀のイギリス社会は“2つの国民の時代”といわれ、貧富の格差が激しく、富める者(上流階層)は全体の3%であり、約80%を占める人々は貧困階層に属し、中でも最下層の人びとは、まともな仕事につくこともできず、貧民街では、ひとつの家族が、ひとつの部屋で暮らしていた。じめじめした地下室で暮らす家族もいた(10)。貧民街の狭い路地や通りには、家庭から出る下水が流れる排水溝が掘ってあり、汚物はその溝を通って川に流れる仕組みになっていた。テムズ河添いにはそうした貧困者が住み着いていたので、河はいつも汚物で汚れ、そこから出る臭気が人々を悩ませた。「家屋や街全体の不潔」「居住地の過密による換気の悪さ」「汚水」「日光不足」に加えての「栄養の不足」は、感染症の絶好の温床である。特に子どもの死亡率が高かった。衛生環境の弱点は、もろに貧困階層を直撃し、多くの生命を奪った。

ここで再度、ナイチンゲールの働きに目を向けてみよう。クリミア戦争から帰還したナイチンゲールの目には、スクタリの陸軍病院でみた情景と、貧困階層の人々が置かれた状況とが重なって見えた。それゆえに、1856年以降のナイチンゲールの関心は、英国陸軍の保健衛生問題から、貧民たちの暮らしのあり方に向けられ、彼らの暮らしを健康的に整えることによって、感染症から生命を守り、健康を獲得していくための道筋を整えていく方向へと転換した。

(2) 衛生改革は、出版と政治と教育を通して!

ナイチンゲールは、国全体の衛生問題を解決し、同時に貧困者救済の道を切り拓くために、いくつかの手段を講じている。1つ目は出版物を通して人々を啓蒙すること、2つ目は政府の要人を動かして国の制度を改革すること、3つ目は衛生改革のための教育制度を創設して、実践者を養成することであった。ナイチンゲール家が当時の上流階層に属しており、国を動かすことができる力のある人々との交流が可能であったことや、クリミア戦争中の彼女の活躍が国中に知れ渡っていて、多くの国民がナイチンゲールの言動に関心をもったことが、こうした数々の仕事を実現する後押しをした。

 クリミア戦争から帰還後のナイチンゲールは、体調不良でその後半生のほとんどをベッド上で送ったが、彼女の真の業績は、このベッド上から生まれた。名著と謳われる数多い著作を出版し、それらの著作を通して「看護とは何か」を明らかにし、「病院本来のあり方」を説き、「貧困者救済の道」を明示し、結果として国全体に蔓延していた感染症予防のための総合システムを作り上げた。このテーマは『看護覚え書』(1860年)、『病院覚え書』(1863年)、『救貧覚え書』(1869年)という著作のなかに表われている。

 ナイチンゲールが上記3冊を執筆していた当時のイギリスにおいては、感染症は細菌によって引き起こされるという学説はまだ一般に周知されていなかった。細菌説が定着し、ワクチンが作られて予防策が生まれるのは、まだまだ先の話である。しかしナイチンゲールは一貫して“感染症は予防できる”と主張して、暮らし全体の見直しを通して、具体的な衛生改革に取り組むようにと訴え続けた。そしてその先鋒に立ったのは病院の看護師であり、地域で働く訪問看護師であり、助産師たちであった。公衆衛生看護の始まりである。さらに日々の暮らしの担い手である家庭を守る母親たちに働きかけて、家を健康的にすることで感染症を減らすことができると力説した。このテーマは『看護覚え書』に詳細に書かれている。ナイチンゲールは本書の冒頭で「すべての女性は看護師である」と述べて、家庭を健康にするための基本について説いた。長年にわたって社会に蔓延っている間違った因習が、いかに健康を害するかを分かりやすい事例を交えながら説いたのである。本著は「一家に1冊『看護覚え書』を!」というキャッチフレーズのもとに、多くの人々の手に渡り、具体的実践が展開され、衛生の基本が形作られていった。

 さらにナイチンゲールは、救貧院の生活実態を調査し、救貧院附属の病院の現実にも目を向けた。救貧院はまさに牢獄のようであり、そこには病人も老人も障害者も子どもも混合収容されていて、人間の生活には程遠い場所であった。その現実を改善すべく提案したのが救貧法の改正案である。ナイチンゲールが提案した内容は、その後「首都救貧法」として1867年3月に制定された。エイベル-スミスは、「首都救貧法は英国社会史の重要な一里塚であった。この法律は、貧民への病院の提供が国の責務であることを初めて明確にしたものであり、それゆえに約80年後の国民保健サービス法につながる重要な第一歩を印すものであった(11)」と評価している。

 

4.まとめ

 ヴィクトリア朝時代の19世紀のイギリスは、感染症に苦しめられた時代であった。大都市は繁栄のシンボルであったが、その裏には不潔と過密と貧困が同居していた。これらはどれか一つを取り除けばよいという問題ではなく、同時にその解消に向けて取り組まなければ決して解決されないものである。ゆえにこの時代には多くの社会改革者が登場するが、ナイチンゲールもそのうちの一人である。彼女が成し遂げた社会改革の主軸は、衛生改革であり、病院改革であり、看護改革であった。彼女は徹底的に感染症と闘った。感染予防のために国の制度を改革するよう働きかけ、人々の意識を変革して、暮らしを健康的に創り変えるように訴え続け、衛生改革のために働く実践者を育成した。彼女の主張の根底には、統計学の祖であるアドルフ・ケトレに学んだ“記述社会統計学”から導き出されたエビデンスがあった。根拠に基づく主張が、人々の頭と心を揺り動かし、行動の変容を起こさせたのである。

その一途でゆるぎない実践と理念は今日においても高く評価されており、ナイチンゲール生誕200年にあたる2020年、新型コロナウィルス感染下の英国において、臨時に建設された数千床を持つ7施設が「フロレンス・ナイチンゲール病院」と名づけられて稼働した。ナイチンゲールの衛生改革者としての功績は、現代英国の公衆衛生の土台となっている。

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<補注>

(1) ナイチンゲールが作成した統計表によれば、1854年4月10日から1856年6月30日までの死亡者数は、18,057人となっている。(綜合看護、1989年1号、p.19)

(2) 秘密報告書のタイトルは、“主に先の戦争での体験に基づく英国陸軍の健康と能率と病院管理に影響を与える事項に関する覚え書”(Notes on matters affecting the health, efficiency, and hospital administration of the British Army, founded chiefly on the experience of the late war)である。

(3) 小冊子のタイトルは、“国内、国内と国外、およびロシア戦争中における英国陸軍の死亡率と、イングランド市民の死亡率との比較”(Mortality of the British Army, at home, at home and abroad, and during the Russian War, as compared with the mortality of the civil population in England)である。

(4) F.ナイチンゲール(1858/1989)、久繁哲徳・松野修訳:英国陸軍の死亡率(後編)、Vol.24, No.1, p.25.

(5) この表のタイトルは「陸軍主計総監の野営計画に付されたデータにもとづいて作成された図」となっている。(同上書、p.27)

(6) F.ナイチンゲール(1858/1989)、久繁哲徳・松野修訳:英国陸軍の死亡率(後編)、Vol.24, No.1,p.15.

(7)  同上書、p.16.

(8) 角山榮、川北稔編(1993)、路地裏の大英帝国、p.96、平凡社.

(9) 同上書、p.96.

(10) アレックス・ワーナー&トニー・ウィリアムズ(2011/2013)、松尾恭子訳、写真で見るヴィクトリア朝ロンドンの都市と生活、p.81、原書房.

(11) B・エイベル⁻スミス(1981)、多田羅浩三、大和田建太郎訳、英国の病院と医療、p.108、保健同人社

 

<参考文献>

1) リン・マクドナルド(2010/2015)、金井一薫監訳、島田将夫・小南吉彦訳、現代社.

2) 金井一薫(2004)、ケアの原形論(新装版)、現代社.