プロローグ

伝説化されたナイチンゲール

フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910)は、世界中の誰もが知っている著名な人物ですが、彼女の素顔や業績について真に理解している人は、そう多くはないようです。

ナイチンゲールは、クリミア戦争において、女性がその一生をかけて打ち込むことができる職業として、看護職の存在を当時の世に知らしめた人ですが、彼女が上流社会出身で社会的身分の高い貴婦人だったこと、英国のみならずヨーロッパの社交界において、すでに若きナイチンゲールの人となりや知性が人々の口にのぼっていたなどの理由から、クリミアへの従軍が決定した段階で、世論は大いに彼女の動向に関心を抱き噂が盛り上がっていました。

結果として、多くの取材や視察が行われ戦地の状況報告とともにナイチンゲール看護団の活躍の様子が報告される形で膨大な記事や情報が新聞や雑誌に掲載されました。中にはナイチンゲールが書いた手紙類を紹介した伝記の類もあり、それらも相当数にのぼります。つまり彼女は、デビュー当初から“有名人”になっていたのです。

それが、ナイチンゲールが「クリミアの天使」として騒がれる前提条件であったと思われます。しかし、多くの記事や噂は、クリミア戦争で活躍したナイチンゲールの姿を世の中に広く伝えることには貢献しましたが、ナイチンゲールという女性が本来備えていた卓越した多彩な才能や働きについては、語り切れていないように思われます。

わが国におけるナイチンゲール像も、そうした傾向をそのままの形で継承した結果、国民の間では“敵味方なく看病したクリミアの天使”“自己犠牲の精神の権化”“一生を看護師として身をささげた優しい女性”などとして定着してしまったようです。

しかし、これらのイメージは、いずれも事実とは大きく異なっています。
第一に、ナイチンゲールが戦場で敵味方なく看病したという記述はどこにもありません。
第二に、ナイチンゲールは“看護師は誰も自己犠牲を惜しまぬ白衣の天使であるべきだ”と強要した人ではありません。

 看護の仕事は、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事です。
犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、本当の看護師といえるのです。

この言葉こそ、ナイチンゲールが看護師たちに望んだ資質だったのです。
ナイチンゲールは、その人がどんなに看護に対して熱い思いや意思を持っていたとしても看護の目的を理解せず、ただひたすら優しく親切に骨身を惜しまずに働くだけだとしたら、その行為は看護という職業のあり方からみて適切であるとは言い難く、ましてや看護は自己犠牲の中から生まれる実践であるとは考えてはいませんでした。
むしろ看護職を1つの専門職として創起させたいと思っていましたから、看護師に求めたのは奉仕や献身の精神ではなく、大きな責任を自覚できる社会的に自立した精神であり、自己が選んだ職業に対して使命感を感じとることのできる優れて豊かな思考力だったのです。
第三に、1820年5月12日生れのナイチンゲールは、90歳という長寿を全うした女性ですが、36歳の時にクリミア戦争から帰還したその後の54年間はベット上の生活を余儀なくされ、看護師として働いたのは、なんと2年半しかなかってのです。
しかし、ほとんど外出がかなわない状況にありながら、この間にナイチンゲールが成し遂げた仕事こそ、クリミア戦争での活躍をはるかに越えて、後世に残る偉業だったのです。

つまり、世間一般に伝えられているナイチンゲール像は、その大半が虚像にすぎないのです。それはナイチンゲール自身が、後半生の大部分を世間から隔絶された状態で生きることを望み、人々の前に姿を現さなかったことも原因の1つでしょう。
それゆえに、ナイチンゲールのイメージは、早い時期に国民の間で固定してしまったまま伝説化された像が勝手に独り歩きしてしまったと考えられます。

ここでは、ナイチンゲールの伝記およびナイチンゲールが書き残した膨大な著作を紐解きあらためて浮き彫りにされる“ナイチンゲールの8つの素顔”を紹介いたします。

ナイチンゲールの8つの素顔

  1. “著述家”としてのナイチンゲール
  2. 看護の発見者” としてのナイチンゲール
  3. “教育者”としてのナイチンゲール
  4. 優れた管理者” としてのナイチンゲール
  5. 衛生改革者” としてのナイチンゲール
  6. 病院建築家” としてのナイチンゲール
  7. 統計学者” としてのナイチンゲール
  8. ソーシャルワーカー” としてのナイチンゲール

1. “著述家”としてのナイチンゲール

ナイチンゲールといえば、一生を臨床現場で看護師をしていたかのように思われがちですが、実は人生の大半の時間を、一室に籠って仕事をしていた人で、クリミア戦争から帰還して後の生活においては、彼女が起居する自室そのものが現代にいえば、さながら国民の健康と医療の制度をめぐって探求する “シンクタンク” のようでした。

自らの提言で政府内に様々の諮問委員会(時には勅撰委員会)を組織し、情報を収集し、調査表を作成し、それらを整理してまとめ、そして報告書を書く……という仕事を、何人かの才能ある親しい人々の援助は受けていましたが、基本的には自らの意思と企画によって成し遂げていきました。しかもそれらは際限もなく続き、眠る時間さえないほどの仕事量のために、一旦衰えた体力は回復せず、体調不良の状態は慢性化していき、クリミア戦争以降、二度とユニフォームを着て病院という現場に立つことはなかったのです。

多忙かつ過酷で、体調を整える時間的余裕はほとんどない状態の中で、自らの健康は省みず“国民の健康の実現”というテーマに取り組み、重要な提言をし続けた人……、それがナイチンゲールの生きた真の姿でした。

しかも手がけたテーマは実に多彩で、陸軍兵士の健康問題、病院組織や看護組織のあり方の問題、植民地インドにおける人々の健康と幸福の問題」など、最下層の国民の生活と健康に関する内容が多く、政府に向けて膨大な提言書を書き、依頼された原稿や講演録を執筆し、国民にとって重要と思われるテーマについては著書を出版するというぐあいで、結果的にナイチンゲールは150点を超える印刷文献と、12,000通以上にも及ぶ手稿文献を書き残しています。

彼女が書き遺した著作(印刷文献と手稿文献)全部を合わせたものを、「ナイチンゲール文書」(Nightingale Papers)と呼びますが、実に多彩な領域に及んでいることにも驚かされます。
しかも、その内容たるや今日的視点から見ても決して色褪せて古びたところなどなく、それどころかそれらは不朽の名著の数々であり、この事実からナイチンゲールは、まさに偉大な「著述家」であったと言うことができるのです。

さて、ナイチンゲールの著作をつぶさに調査し全著作を読んで整理した最初の人が、W.J.Bishop氏で、彼の死後にその仕事を引き継いで1冊の本にまとめたのが彼の秘書であったSue Goldieという女性でした
それは、『 A Bio-Bibliography of Florence Nightingale 』(ナイチンゲール文書目録)というタイトルで、1962年に出版されています。

Bishopは、ナイチンゲールの150点の著作に1番から150番まで番号を付け、それらを内容に応じて9項目に分類し、すべての作品にアブストラクト(要約)を添えています。これにより、ナイチンゲール文書の全貌をつかむことが容易にできるようになったのです。

 

9 グループの文献 作品数 邦訳数
(1)看護に関する文献 47編 28編
(2)英国陸軍に関する文献 11編 4編
(3)インドおよび植民地の福祉に関する文献 39編 1編
(4)病院に関する文献 8編 2編
(5)統計学に関する文献 3編
(6)社会学に関する文献 9編 5編
(7)回顧録と献辞 8編 1編
(8)宗教および哲学に関する文献 4編 1編
(9)その他の文献 21編 5編
合計 150編 47編

 

 

一見しただけでも、ナイチンゲールが手懸けた領域が、いかに広かったかが見てとれます。
しかもこれの文献は、すべて完全に保管されていて、ナイチンゲール文書からナイチンゲール思想をつかみ取ることは具体的に可能で、それらは「著述家としてのナイチンゲール」の顔を浮かび上がらせています。

これら全著作は、現在ではカナダの社会学者・リン・マクドナルド博士によって編纂され、『 Collected Works of Florence Nightingale』16巻として見ることができます。

Collected Works of Florence Nightingale

ナイチンゲールに直筆の手紙類の一部(ナイチンゲール研究所所蔵)

【ナイチンゲールに直筆の手紙類の一部】(ナイチンゲール研究所所蔵)

ナイチンゲール文書の主要な著作は、すでに47編が日本語に翻訳されています。かつそれらはかなりの人々によって読まれていますが、そうした国は世界広しといえども日本だけに起こっている現象です。そのことによって成し遂げられた日本のナイチンゲール研究の質と量も世界一といえるでしょう。
「著述家ナイチンゲール」によって表現された看護思想の真髄は、わが国における研究の営みを通して、今なおその輝きを失うことなく後世の人々に語り継がれ、引き継がれているのです。

 

2. “看護の発見者” としてのナイチンゲール

ナイチンゲールは、『看護覚え書』(1860年)において、人類の半分を占める女性たちに向けて、家族の健康を守り、かつ病気から回復するために必要な考え方や視点について、当時の最高の科学的知識を土台にして、人類史上初めて「看護とは何か」という看護の定義を明らかにした人でした。それはナイチンゲールを“看護の発見者”と呼ぶに相応しい内容です。

ナイチンゲールの看護観を知るうえで、大事な鍵となる言葉がいくつかあります。
その1は「自然」という言葉です。ナイチンゲールが強調したのは、人間という生命体が持っている「自然」であり「自然治癒力」または「自然の法則」「生命の法則」と呼ぶに等しいものでした。それは人間の“いのちのしくみ”を解き明かしていますし、人間の生き方を左右する本質的なテーマとつながっている発想です

その2は「生活」という言葉です。人間の「生命」は人間の「生活」のあり方によって、健康にもなり、逆に不健康にもなっていきます。ここに「生活」の持つ大きな意味があります。
つまり、人間の生命は、生活のあり方によってその質を変化させ、健康をめぐって様々な状況を創り出していくのです。ナイチンゲールは“病気は生活が創る”という発想を大事にした人です。

その3は「生命力」という言葉です。この生命力とは、その人の内に自然の中で与えられたものであり、生命活動を営む根源的な力となるものです。また、人間世界における「生命力」は、人間が作り上げた「生活」や「社会」に影響を受けて形成されるものであり、常にトータルな姿として存在します。

では、ナイチンゲールは「看護とはどんなはたらきをするもの」とみていたのでしょう。

・看護がなすべきこと、それは自然が患者に働きかけるのに最も良い状態に患者を置くことである。

・看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また食事内容を適切に選択し適切に与えること、こういったことのすべてを患者の生命力の消耗を最小にするように整えること。

この二つの文章は、『看護覚え書』の中に記載されたものですが、見事に看護の本質を表現したものとなっています。つまり、看護の働きは身体内部に発動する自然のはたらき(自然治癒力)が、最もその力を発揮できるように、そして内部環境の恒常性が保持できるように、自然界の要素を適切に取り込むことも含めて、生活のすべてを最良の条件に整えることであるというのです。

看護とは“その人の生きる力(生命力)に力を貸すことである”と言い換えることが可能ですが、具体的な力の貸し方は、あらゆる「生活」場面を通して、あらゆる手段を思考しながら、最も有効と思われる方法で行われます。加えて提供する看護が、そのつど患者の生命力の消耗を最小にするように配慮されるべきであるということです。

ナイチンゲールの見事さは、“これが看護である”と定義づけた点です。そしてこの発想 は今も昔も変わることなく、看護の本質として、看護の行為を支えていく思想であると考えられる点です。ナイチンゲールは『看護覚え書』を通して、この思想を国民に広く訴えました。それは誤解や偏見に満ち満ちていた看護の世界に、新鮮な風が吹きこんだ瞬間でした。

また彼女は、『看護覚え書』の副題を「What it is and what it is not ― 看護であること、看護でないこと」としました。今行われた看護が果たして“看護であったのか、なかったのか”判断をくだすのは看護師自身です。

看護の専門性や看護独自の機能というとらえ方は、ナイチンゲールによる看護の定義の記述があったことで理解が可能となり、私たちは、まっすぐにひとつの道をまようことなく歩むことができるようになったのです。

看護の価値を発見したナイチンゲールは、世に近代看護という制度と職能の確立を通して、誰もが健康的で人間らしい生活を送ることができる社会の仕組み作りに貢献したと言えるでしょう。したがって、ナイチンゲールの『看護覚え書』は、そこに看護の定義が解き記された価値ある著作というだけでなく、人間社会のあり方と人間のあり方とを導く「啓蒙書」でもあったと言えるのです。

看護覚え書 最新版 原文-看護覚え書

左『看護覚え書』第7版(現代社)

右『原文・看護覚え書』(現代社)

3. “教育者”としてのナイチンゲール

クリミアから帰還したナイチンゲールの元に、国中から寄付金が寄せられました。金額はおよそ45,000ポンドであったと言います。現在の価格では、1ポンドを2万円として換算しますと、およそ9億円になります。そこでナイチンゲールの希望を取り入れて「ナイチンゲール基金管理委員会」が設立され、この寄付金を元手にした「ナイチンゲール看護師訓練学校」が設開設されました。

ナイチンゲールは世界で初の看護師訓練学校に相応しい教育者と訓練場所を選定するのに苦労したようです。特に訓練を授ける実習場として「優れた看護を展開している病院」を探すことは困難だったようです。結果として「聖トマス病院」が指名されました。

校長には聖トマス病院で総婦長をしていたウォードローパー夫人が指名されました。開校は1860年6月24日でした。当時の聖トマス病院はこじんまりした建物でしたので、見習生は15名に制限されました。
その後、1871年にテムズ河沿いに新聖トマス病院が設立されると、それに伴って入学者は30名に増員されました。19世紀末には、32名の定員に対して、1年に1500名もの志願者があったほどに人気が高かったようです。

ナイチンゲール看護師訓練学校の開校目的は以下の通りです。

  1. 正規の教育を受けた看護師による本来の看護の実現
  2. 品性を備えた女性による看護の実現
  3. 宗教的実践からの分離

これはあまり知られていませんが、教育は以下の2本立てで行なわれました。
1.一般スタッフ教育 ― 座学1年間+実務(実習)2年間
2.管理者教育 - 座学1年間+実務(実習)3年間

スタッフ教育と同時に管理者養成が行なわれていたところに、ナイチンゲールの深い読みがあったようです。つまり、新しい教育システムで育った卒業生たちが、スタッフとして旧いシステムで動いている病院に入っても、そのトップにいる管理者が看護を理解していなければ、彼女たちの力は発揮できず疲弊してしまうと考えたのです。
この教育システムは大成功でした。ナイチンゲールは教育を受けた管理者とスタッフをひとつのチームにして送り出しました。まさに「看護改革プロジェクト」です。こうして、多くの「改革プロジェクトチーム」が編成され、各地の病院に派遣されたのです。彼らは「ナイチンゲール・ナース」と呼ばれ、世界中にナイチンゲール方式の教育や管理の形を伝えていきました。

学生たちは「ホーム(寄宿舎)」に住み込んで、座学と実習とにエネルギーを注ぎました。カリキュラムはきちんと整理され、教員(シスター)たちもナイチンゲールと綿密に打ち合わせをしながら、学生を育てていきました。

【寄宿舎の内部】

カリキュラムは、①治療処置へのケアと、②看護ケアの2本立てでした。この考え方は今日の看護教育の根幹をなしています。

① 治療処置へのケア

・水疱、火傷、外傷などへの手当て

・浣腸、医療器具の取り扱い  ・褥瘡の手当て

・手術へのケア  ・包帯法  ・副木の使用など

②看護ケア

・換気、食事、移動、清潔、着替え、体位変換

・ベッドメイキング、寝たままでのシーツ交換

・病人用の飲食物の調理   ・病人の観察

・器具の清潔   ・回復期患者の扱い

教科書に『看護覚え書』が採用されました。

英国においては、ナイチンゲール看護師訓練学校が開設された当初(1860年)には、教科書として使える書物がなかったようで、ナイチンゲールは『看護覚え書』を使うように助言しています。  その後、1871年に聖トマス病院が新設されて養成人員を増やす頃になると、カリキュラムはさらに整備され、本格的な看護教育が始まりました。そこでの教育には『看護覚え書』第二版が「必読書」として指定され、第十五(補章)の「看護師とは何か」から読むように指示されました。続いて第十三章の「病人の観察」、第一章、第三章、第六章、第七章、第八章、第十章、第十一章が指定され、これらの章は少なくとも4回は繰り返し読むように指導されていたことがわかっています。

新聖トマス病院全景

【新・聖トマス病院全景】

ナイチンゲールは晩年になると1年に1回、在校生と卒業生に向けて、長い書簡を書き認めています。1870年~1900年の間に14編の長い書簡があることがわかっています。これらの書簡はすべて日本語に翻訳されて、私たちはいつでもナイチンゲールの声に耳を傾けることができるようになっています。

晩年のナイチンゲールと看護学校の生徒たち

【晩年のナイチンゲールと看護学校の生徒たち(クレイドンハウスにて)】

4. “優れた管理者” としてのナイチンゲール

ナイチンゲールの看護実践体験は、わずか2年半というたいへん短いものでした。初体験は33歳の時に、ロンドンのハーレイ街1番地にある「恵まれない境遇にある女性家庭教師たちのための病院」における総監督という仕事で、この歳に至って初めて長年温めていた看護という仕事を具現化するチャンスが与えられたのです。

しかし既設の病院運営は、反目し合う「貴婦人委員会」と「紳士委員会」により病院の経理は乱脈を極め、さらに病院の管理運営のあり方も混乱を極めており、ナイチンゲールに寄せられた期待には、病院の建て直しとその健全な運営という、たいへん重いものがありました。

就任にあたって、ナイチンゲールが両委員会に求めたのは、
① 温水用の配管を各階に引くこと
② 患者の食事を上階に運び上げるための「巻き上げ機」(リフト)を設置すること
③ 現在のナースコールの原型である「弁付き呼鈴」を設置すること

このようにナイチンゲールは、総監督として働く条件として、まずは病院の設備面の充実を訴えたのです。そしてまず手がけた仕事は、古い建物から運ばれてきた家具や、洗濯された形跡がなく汚れてぼろぼろのリネン類の点検で、新たに作ったり洗濯したりして使える状態にすることでした。新たな家具や調度品を新調する必要もありました。

次に台所の改善です。適当な調理用器具を揃えることから始め、保存食を作ったり、パンやビスケットを焼いたりして、健康面を重視した視点を取り込んでいます。

さらに改革は経済面にも及び、物品購入のシステムを点検して、無駄を省いた購入方法に切り替えたり、賃金の額や支払方法を考案したり、不適切な看護師や使用人を解雇したりと、ナイチンゲールの視線は、あらゆる側面に注がれています。こうして設備や人材が整ってくるに従って、彼女の目は徐々に一人ひとりの患者個人に向けられていきました。

ナイチンゲールの具体的実践の姿は、彼女自身が貴婦人委員会へ宛てて書いた「監督者からの季刊報告書」に詳細に記述されています。季刊報告者には必ずその時期に入院している患者数、退院した人数と退院者の病名や退院に至った経過などが明確に記され、入院患者の特徴の全体像を記して、彼女たちの健康を回復させ、社会へと送り出して行くにはどうすべきかを考察しています。

【ハーレイ街病院の跡地に建つクリニック】(2010年撮影)

この病院での経験は1年、次に待っていたのはクリミア戦争という舞台でした。

スクタリ(トルコ)の兵舎病院は、総延長6kmにも及ぶ長さでベットが並べられ、1つの町のように配置された建物でしたが、それは不潔で汚れきり、腐敗しかかっていました。死亡率は高く(ある時期の患者数は平均2,349人で、同じ期間中に2,315人が死亡)、しかし、ナイチンゲール看護団は、従軍当初ほとんど機能しませんでした。頑迷な陸軍組織によって運営されていた管理システムの中では、個人が個人の判断で自由に動くことができなかったからです。手をこまねいている間に、失われなくてもすんだ多くの生命が、いたずらに失われていきました。

ナイチンゲールは看護部門の総責任者という職位に忠実であろうとしていましたが、それはすなわち陸軍病院においては、病院の規律に絶対的な支配権を持っていた陸軍当局と医師団の許可なくしては、看護部門は何事もなしえず、看護に必要な物資の確保すら許可されないという状況に置かされることを意味しました。その状況が一転したのは陸軍当局と医師たちが、もはやナイチンゲールとその看護団の力をも借りない限り、事態の収拾が絶望的であることを悟り、今まで頑固に忌避していたナイチンゲールに救援を求めたことによります。

自由に活動する権限が与えられるや否や、ナイチンゲールは活き活きと動き出し、病院改革と看護改革に乗り出します。

伝記作家セシル・ウーダム-スミスは、ナイチンゲールの看護実践について、次のように記しています。
「病人の大群が雪崩込んでくれば、彼女は24時間ぶっ続けで立ち働いたし、怪我人に包帯をするために8時間もひざまずいていた。(中略)その冬2,000人もの患者の臨終に付き添ったし、最も重症な患者は彼女自らが看護に当たった」。

この献身的で不休不眠の看護が、兵士たちの心に響いて、しだいに“クリミアの天使”と まで呼

ばれるようになるのですが、戦争が終結するまでに成し遂げた業績は、具体的に死亡率の低下と

して示されたのをはじめとして、その療養環境の変化は誰の眼にも明らかとなりました。

病院内部は清潔になり、回復に向かった兵士たちはナイチンゲールが用意した院内の学校で文字を習い院内の図書館で本を読み、憩いの場所として院内に建てられた大コーヒー館で酒類の代わりにお茶を飲み、給金の一部を本国の貧しい家族に送金する……などの光景が見られるようになったのです。

ナイチンゲールは、こうした事業をほぼ1年半でやり遂げ、大きな変革をもたらしたのです。当初はナイチンゲールとその看護団を頭から信用せず、拒否していた医師団をはじめとして周囲の人々が驚嘆したのも無理はありません。

ここにナイチンゲールを“優れた管理者”または“実力を備えた実践家”として位置づける根拠があります。

5. “衛生改革者”としてのナイチンゲール

クリミアから帰還後のナイチンゲールの著作を紐解きますと、随所に当時の英国の、とりわけ都市部における生活環境が、いかに不潔で不衛生きわまるものであったか、またそれによる国民(特に貧困階層)の死亡率が、いかに高かったかを指摘した文書に出会います。

そしてナイチンゲールの後半生の仕事の大半は、不衛生で不健康な生活環境に対する国民の意識を改善し、具体的な衛生対策を提言し、それを政府や議会を通して具体的に実現させる……、という課題に費やされていました。彼女は問題点の発見においても、解決のための施策の案出においても、さらには政府や議会を動かして実現に持ち込むことにおいても、まさに実力ある“衛生改革者”の一人であったのです。

19世紀という時代においては、国民の死亡原因の第一位は「感染症」によるものでしたしかもその死亡率は生半可な数値ではなかったのです。コッホによって結核菌が発見され、感染症には必ずそれを発症させる病原菌が存在することが証明されて、予防というテーマが形をなすようになるのですが、それらはすべて1882年以降のことです。

1880年代以前にあって、ナイチンゲールは終始一貫して「感染症は予防できる」と主張していました。そのためには清潔で健康的な生活環境と、健康的な暮らしの営みが不可欠であると説いたのです。現代ではごく当たり前になっている発想が、当時の一般の人々の間では、まだ浸透していませんでしたから、ナイチンゲールは、この国民が信じて疑わない古い風習や古い思想と、真っ向から戦わなければなりませんでした。

……すべての病気は、その経過のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は回復過程[reparative process]であって、必ずしも苦痛をともなうものではないのである。
つまり病気とは、毒されたり[poisoning]衰えたり[decay]する過程を、癒そうとする自然の努力の現れであり、それは何週間も何ヶ月も、ときには何年も以前から気づかれずに始まっていて、このように進んできた以前からの過程の、そのときどきの結果として表われたのが病気という現象なのである。

これは、ナイチンゲールが病気のとらえ方として表現した『看護覚え書』の序章の文章ですが、ナイチンゲールはこの文章を書いた1860年には、すでに「潜伏期」という発想を持っていたことが読み取れます。人体内部の環境が健康であれば、つまり免疫力(生命力)が横溢していて病気を発症させない状態にあれば、症状は出ないという考え方に通じる思考を持っていたのです。これは当時の感染症に対する一般論と比較してみれば、きわめて卓抜した見解であると言えるでしょう。そしてナイチンゲールはこの思考を出発点として、あらゆる病気という現象を見つめていったのでした。

ナイチンゲールは、「感染」は空気の汚れから起こるものであり、「感染」は予防することができるものであるという、強い信念を持っていました。当時、この発想は科学的な知見を無視した「無知な見解」として槍玉にあげられるのですが、各種の病原菌が発見され、それに対応するワクチンが開発されて、多くの感染症を予防できる今日の知見に立って振り返ってみれば、ナイチンゲールのこの見解は無知どころか、正論としての地位を保持するものであることは、異議のないところでしょう。

ここで、ナイチンゲールの『感染防止策』をまとめてみます。

a:開け放した窓から、新鮮な空気を取り入れること
b:部屋の清潔を保つこと
c:陽光を取り込むこと
d:ひとつ屋根のもとに、多数の病人を密集させないこと
e:室温を下げないこと(寒がらせないこと)
f:病院が本来の機能を発揮し、感染を防止するためには、病院の構造や立地条件などを考慮すること。

実に単純明快でわかりやすい内容ですが、人類の多くが長年にわたり苦しめられてきた感染症の実態を見つめてみますと、その根っこにあるものは、不潔や貧困と無知であることに思い至ります。それゆえに、ナイチンゲールの指摘は実に的を射たものであり、時と場所を超えて実践していかなければならない、普遍的な見解であると納得できるのです。

スクタリ病院傍にある兵士たちの棺と墓

【スクタリ病院傍にある兵士たちの棺と墓】

6. “病院建築家”としてのナイチンゲール

「感染症は予防できる」と考えたナイチンゲールが、当時最も心を痛めていたのは、本来病人を病気から回復させるための施設であるべき病院が、その病人の詰め込みや、病院管理のあり方の誤りや、そして何よりも病院の建築構造そのものの欠陥によって、却って病状を悪化させ、さらには二次感染(病院内の感染)を誘発する温床となって、死亡率を上昇させているという現実についてでした。

そのためにクリミア戦争から帰国後の彼女は、陸海軍の病院だけではなく、一般の公立病院や民間病院のあり方に目を向け、とりわけ病院建築のあり方について考察を深め、数々の提言を行っています。病院建築のあり方に関するナイチンゲールの指摘や提言の大要は、『病院覚え書』という著作にまとめられ、冒頭部分で次のように述べています。

病院がそなえているべき第一の必要条件は、病院は病人に害を与えないことである。(中略)というのは、病院、それも特に人口の密集している都市の病院《の中での》死亡率が、病院《以外の場所で》手当を受けている患者について予想できる同種の病気の死亡率よりも、はるかに高いからである。

ナイチンゲールは、“病院病”を発生させる原因として、以下の4点を挙げたのでした。
a : ひとつ屋根のもとに多数の病人が密集していること
b : ベットひとつ当りの空間の不足
c : 換気の不足
d : 太陽光線の不足

病院に不健康さをもたらす一般的で、かつ避けることのできる原因を多数とりあげ、次にそれらをふまえて“病院はこう建築されるべきであるという原則”について述べています。

病院構造の第一原則は、分離させた各パビリオンに病人を分割することである。

病院の場合パピリオンとは、建物全体のうちの分離して造られている一棟をいう。 (中略)パビリオン建築を特徴づける決定的なポイントは、規模がどうであれその病院をいくつかの独立した部に分離させ、全体に共通の管理はあるが、その他の点ではいっさいが別々であるということである。

大部屋主体のシンプルなパビリオン式病院の良さは、ナイチンゲール文献によれば、以下の4点にまとめることができます。

1. 自然換気が容易に、かつ完全にできる病棟構造であること
2. 看護面からみて、監督指導が容易にできること
3. 患者の規律が、守られやすい病棟であること
4. 建築上および管理上、費用が少なくてすむこと

そして1871年、ナイチンゲールが指摘した条件を満たした病棟が、ナイチンゲールの指導のもとで、ロンドンにある「聖トマス病院」に建築されました。ナイチンゲール病棟のモデルとして歴史に残るデザインです。その縁で「ナイチンゲール看護師訓練学校」は、この病院内に開設されました。

聖トマス病院のナイチンゲール病棟

【聖トマス病院のナイチンゲール病棟】

1900年当時のナイチンゲール病棟

【1900年当時のナイチンゲール病棟】

 

【 図Ⅰ】のナイチンゲールが指摘した「あるべきパビリオン式病院の構造」

a) 各棟の病室の階数は、2階以上にすべきではない。
さらに高くするばあいは、各パビリオン間の距離を建物の高さの2倍とること。
b) 各階の病室数は、パビリオン全体を端から端まで開け放して、1つの階に病室は1つとすべきである。
c) 1つの病室に収容する最適のベット数は、20~32床がよい。
d) 特殊な患者を収容するための個室は、一ヶ所にまとめて他の病室とは別に管理すること。大病室に付属させておくと、適切な看護が提供できないからである。
もし1つのパビリオンに付属させるばあいには、2床までとする。
e) 窓は、少なくとも、ベット2つごとに1つの窓がほしい。
それは、「①光」「②換気」 「③患者がベットでものを読めるようにする」ためである。
f) 病室の換気は、ドア、窓、暖炉を主な換気手段として使うべきである。
g) 浴室は、大浴室と小浴室を設け、大浴室は病棟から遠くない位置に廊下から入れるように独立して設け、小浴室は病棟ごとに設置する。
h) 便所は病室の入口の反対側に設ける。間には明るい、換気の良い廊下をはさむ。病院 事務員や看護師のための私用の便所は、患者用とは区別して造らなければならない。
i) シスター(看護師長室)は病棟の片側に配置され、寝室および居間として十分な広さを持つものとする。看護師長は昼夜を問わず待機して指揮をとる。
j) 家事室は各病棟に1つづつ、看護室長室の反対側の通路に付属して設ける。
ここには看護師が食事をとったり、補助婦が洗い物などをしたりすることができる効率の良い無駄のない設備が必要である。
k) リネン室は広くて照明の十分な部屋が必要である。修膳室は別に設ける。
l) 調理場は病棟から離し、壁と天井は明るい色のセメント塗りにする。
m) 洗濯室は病院建築物とは別棟にし、汚れ物は壁の中に設けられたダストシュート(汚れ物を送る管)を通して運ばれるようにし、速やかに洗濯室に運ぶ。

このように、ナイチンゲールの指摘の1つひとつは、当時としては画期的なものでした。
汚れ物はダストシュートで運ぶという案は、現代の発想ではないかと思えるほどに、そのアイディアには斬新さがあります。

ナイチンゲールが考案し、推奨した「パビリオン式」病院構造(ナイチンゲール病棟と呼ばれる)は、その後英国のみならず世界各国で採用され、ナイチンゲールの「病院建築家」としての名は、世界のその道の専門家たちに広く知られるところとなりました。

ナイチンゲールが、病人の看護ということ、病人の療養ということ、病院治療ということ、これらの本質にまで踏み込んで考案し、推奨した病院建築構造には、その看護理念とともにそこに展開されるべき病院看護の基本が組み込まれています。ナイチンゲールの病院建築思想の底には、「看護の原理」が横たわっているのです。

パビリオン式の病院構造を推奨したナイチンゲールの病院に対する考え方は、その後英国のみならず様々な国で取り入れられ、ナイチンゲールの「病院建築家」としての顔は、その道の専門家たちに広く知られるところとなりました。ナイチンゲールの『病院覚え書』は、今も病院建築の専門家の間では、病院建築の原点を示す古典として高く評価されています。

7. “統計学者”としてのナイチンゲール

若い頃から数学や統計学という領域に強い関心を寄せて、その研鑽を積んだナイチンゲールは、当時としては最先端の知見と技術を修得し、かって誰も手をつけられなかった英国陸軍の衛生問題全般に対する適格な指摘を行うことができたのでした。

“統計学者としてのナイチンゲール”という側面は、クリミア戦争における兵士たちの死亡の原因究明を、統計学的に立証したこと、および病院統計という考え方を確立したという点に求めることができます。

事実の意味をしっかりと見極めようというナイチンゲールの思考は、

クリミア戦争の最初の7ヶ月間に、病気だけを原因とする兵士の死亡率は年60%に達しましたが、この比率は、ロンドンの大疾病による死亡率よりも、コレラの死亡率よりも高い

という事実でした。その事実を視覚に訴えようとして考案された図表が世に知られる「ナイチンゲールのバッツ・ウィング」(こうもりの翼)というグラフです。当時は、まだ棒グラフや円グラフが一般的に認知されていない時代にあって、ナイチンゲールは独創的な図を考案しているのです。

ナイチンゲールのバッツ・ウィング

【ナイチンゲールのバッツ・ウィング】

この図は1854年4月から1856年3月までの病院における東洋の陸軍の1,000人あたりの年換算死亡率を示しています。
・いちばん内側の円は「もし仮に陸軍の死亡率が、英国で最も不健康な都市マンチェスター
と同じ死亡率であったなら、死亡率はどれくらいになるか」を示している。
・中心から第1、第2、第3の円までの距離は、それぞれ「1,000人あたり100人の死亡者」

を示している。
・毎月の年換算死亡率は、円の外側に記された「月」の方向に向かう、円の中心からの放射線
の長さによって表されている。
・これによれば、1855年1月の1.000人あたりの年換算死亡率は1,174人であり、これは
1665年のペスト大流行の最大の死亡率を記録した9月を上まわるものである。

ナイチンゲールが提示した数々の統計図表は、ことごとく特に英国陸軍兵士が置かれている生活環境について、その改善の必要性を訴えていましたし、ナイチンゲール看護団が戦地で行った病院環境改善と、本来の看護の提供という活動が、いかに兵士の回復力を高めることに貢献できたかを物語っていました。

そしてナイチンゲールの環境改善の要求は、その対象を英国陸軍の兵士たちの生活から、一般病院に入院する患者たちの生活へ、さらに一般国民の暮らし(特に住居)の改善へと広がっていきました。究極の目的は不衛生な環境、不健康な住居が伝染病を生む素地とならないよう、人間が生きるに望ましい環境条件に改めること、そしてそこに確かな看護実践を存在させることにありました。この2点を強調することによって国民全体の健康を助長し人々を苦しみから救い、病院病などの疾患から生命を守ることができると強調したのでした。

さらに、ナイチンゲールの統計学者としての優れた才能は、「病院医療に関する標準統計」の策定という側面からも見ることが可能です。これはまたナイチンゲールの関心が陸軍病院から民間病院にも及んでいたことを証明するものです。

ロンドン市内の病院を調査した結果、各病院は独自の疾病分類方法に従い、その診察結果は統一的な様式に整理されていないことが分かった。また一般の利用を図るための患者の入院期間なども把握されていなかった。こうした欠陥を何とか改善しようと骨を折り、協力的な医師たちやフォー博士、また戸籍本庁の助力を得て、
  (1)まず病気の種類にしたがって疾患名の標準的なリストを作成し、
  (2)病院用の標準的な統計方式を定めた

この内容は、1860年夏に開かれた国際統計学会において「標準病院統計方式」として紹介されました。ナイチンーゲールが提案した標準方式は、その後多くの病院で採用され1862年9月に発刊された『統計学会雑誌』にも掲載されるなど病院統計の標準化というテーマを広く医療界に訴えることに貢献しました。

結果として、ナイチンゲールは統計学者として評価され、1874年10月米国統計協会はナイチンゲールを名誉会員に推薦し、その業績を讃えたのでした。ナイチンーゲールの持つ統計学的能力が、彼女自身の仕事を推進させるのに、大きな力となったのです。

8. “ソーシャルワーカー”としてのナイチンゲール

ナイチンゲール40歳代最後(1869年)の著作に、『救貧覚え書』という短い寄稿論文がありますが、これはナイチンゲールの“ソーシャルワーカー”としての顔を知るのには不可欠の論文です。

“ソーシャルワーカー”とは、公益社団法人日本社会福祉士会の倫理綱領の前文では、以下のようなとらえ方をしています。
「われわれ社会福祉士は、すべての人が人間としての尊厳を有し、価値ある存在であり、平等であることを深く認識する。われわれは平和を擁護し、人権と社会正義の原理に則り、サービス利用者本位の質の高い福祉サービスの開発と提供に努めることによって、社会利用者の自己実現をめざす専門職であることを言明する。」
ソーシャルワーカーは、日本では「社会福祉士」と呼ばれ、1987年に国家資格化された専門職です。その仕事は「相談援助業務」であり、その対象は「社会的弱者」と呼ばれる人々です

19世紀半ばの英国では、貧富の格差が顕著となり、その日の食物も手に入らない最下層の人々が増大する傾向にありました。そのため政府は従来の「救貧法」という法律を改正するなど、必要な対策を立てたのですが、莫大なお金をつぎ込んでも、一向に貧困者の数を減少させることはできず、彼らの生活を向上させることは至難の業でした。そういう社会情勢を熟知していたナイチンゲールは、根本的な貧困対策を提案した起案書を関係者に送るなどして、積極的に政府に働きかけました。その結果として1867年に「首都救貧法」が制定され、これにより英国の福祉(慈善事業)は大きく転換することになったのです。

ナイチンゲールが起案した方針は

(1) 病人、心身障害者、老人や病弱者ならびに子供は、あくまでも別々に、それぞれの適当な施設に収容されるべきであって、現行のようにすべての人々を無差別に収容してはならない。
(2) 管理体制としては、一本化された中央管理体制が必要である。
(3) 病人や心身障害者などのケアと治療のために適切な施設を設けるには、土地や施設の統廃合が必要であり、これまでのように教区税に頼るのではなく、一般地方税の適用が不可欠の条件である。

このような政策転換の柱を明らかにして、政府を揺り動かし通過した「首都救貧法」においては、ナイチンゲールの改革3原則のうち、(1)と(3)の2つが実現し、英国社会史にとって重要な史実となりました。なぜならこの法律は約80年後に“ゆりかごから墓場まで”と謳われ、世界の保健医療福祉のモデルとなった「国民保険サービス」につながる、その第一歩として位置づけられるからです。

次の文章は、『救貧覚え書』のなかで、ナイチンゲールが強調した“人が社会的弱者に対して援助するときの基本”についてです。

 われわれがまず第一にすべきことは、あらゆる病人(働く能力のない人々)に、彼らが治療や世話を受けられるような場所を提供して、彼ら全員を救貧院からそこへ移すことである。(中略)
 その次になすべきことは、飢餓状態にある人々に、彼らが自活していけるようにその方法を教えることであり、飢餓状態であるという理由で、決してこうした人々を罰することではない。

ここでナイチンゲールは、貧困者を人間として対等な存在としてみています。
当時の英国にあっては、同じ国内に“2つの国”があるといわれたほどに厳しい階級差が明確に存在しました。貧困者は人間の尊厳を剥奪された人々であり、哀れみの対象とはなっても、真の救済の対象とは考えられていませんでした。ナイチンゲールの視点は、人間をすべて対等な存在とみなしたうえで、彼らが自活・自立していける道を探り、その道筋を提供することが、本来の援助の姿だと述べたのです。

体が丈夫で前科のない貧困者に関するかぎりは、彼らに対する救貧法の本来の目的は、彼らに罰を与えたり、食べ物を提供したりすることではなく、彼らを勤勉で自立できる人にするために、訓練を施すことである。
それはある意味では、読み、書き、計算と言った国民教育の一野が引き受けるべき事柄であり、またそれは国民の間で“共通認識ができている良心のあり方、つまり道徳”を教えることによってなされていくことであろう。

ここにナイチンゲールの救済観(援助の視点)が明確に表されています。
救貧の目的は、貧困者が教育を受けることによって、職を探すことができるようになり、具体的な仕事に就くことで、生きる方法を自らが身につけることにあります。ナイチンゲールは、今日の社会福祉士が活動目標としている「人間の尊厳を守り、自立と自己実現を目指す」というテーマを、すでにこの時代において、しっかりと訴えていたのです。

そのナイチンゲールは、個人的な慈善事業は不幸な事態を収拾できないばかりか、むしろそうした事態を悪化させているとも指摘して、行政が組織的に介入しなければならないとも力説したのでした。ここに、今日的ソーシャルワーカーとしてのナイチンゲールの顔が、クッキリと浮かび上ってきます。それは時代の諸相をしっかりと見つめていたナイチンゲールの観察眼があったからこそできた、見事な発言であり、提案であり、実践案でした。

ナイチンゲールの援助論の根本に流れていた思想は、それまでのように、ただお金や物を恵むという発想ではなく、その人が持っている力を充分に使って生きる、自立の道筋をつける援助にあったというのが結論です。

劣悪な環境の救貧院の内部

【劣悪な環境の救貧院の内部】

 

エピローグ

ナイチンゲールの幅広い業績を8つに分類し、8つの顔を持つナイチンゲールとして紹介してきました。その1つひとつの顔は、どれも鮮やかで奥深く時代の先端をいくもので、それは誰も手懸けない領域を先駆する専門家としての顔でもありました。

しかし、これらの顔はどれもすべて同じ方向を向いており、その姿勢はいつでも、同じ目標に向かって立ち続けていました。
それは“人間が人間らしく生きていける社会の創造”という方向であり、“国民の病からの解放と健康の増進”、さらには“清潔で健康的な住まいの実現”という目標でした。
そしてこの目標こそ、本来の看護がめざすべき方向や姿と、完全に一致していたのです。

晩年のナイチンゲール

若い頃には寸暇を惜しむことなく、事実の意味を探りあるべき姿の実現に向けて働き続けたナイチンゲールでしたが、晩年にはその心も身体も穏やかに丸みをおび、ナイチンゲール・ナースたちの活躍に目を細め、助言を惜しまず、在校生や卒業生たち、さらには留学生たちを大事にして過ごしました。ここで育ったナイチンゲールナースたちは、その後世界の看護に影響を与え、看護の世界の発展に大きく寄与したのです。

その結果、ナイチンゲールの存在は、当時の英国社会を大きく変えるエネルギーとなったばかりでなく、世界中の人々に看護という仕事の大事さを確認させ、女性たちの自立を促す専門職を創出することになったのです。

そして何よりも、ナイチンゲールの多彩な能力は、最終的には“看護の原理”あるいは“看護思想”の構築という方向に結晶化されていきました。

ナイチンゲールが提起した看護思想は、“看護の原形”として、看護の「なりたち」や「かたち」を教えています。ですから、後世の看護師たちが己の看護人生を歩む途中で迷ったり悩んだり諦めかけたりした時、この原形思考に戻って考えてみれば、必ずや何らかの答を見出すことができる、ナイチンゲール看護思想には、そういう性質が備わっているのです。

ナイチンゲール思想の真髄は、その「疾病観」と「生命観」と、さらにその「看護観」と「健康観」として表出されており、それらはナイチンゲール思想の核心にあたる内容を備えています。ナイチンゲールの看護への熱い思いは、その後の看護界の人々へと継承されて今日に至っています。私たちが今なおナイチンゲールの業績から学び続けられるのは、彼女の生命観、人間観、さらには看護観が、時代と国を超えた普遍的なものの見方を内包しているからに他なりません。

聖マーガレット教会

【聖マーガレット教会】

ナイチンゲール家の墓

【ナイチンゲール家の墓】

 

参考文献

・ 『A Bio-Bibliography of Florence Nightingele』 :  W. J. Bishop & Sue Goldie
Dowsons of Pall Mall  (1962年)

・ 『フローレンス・ナイチンゲールの生涯』 全2巻 : セシル・ウーダム-スミス著
武山美智子・小南吉彦訳、現代社 (1981年)

・ 『ナイティンゲール〔その生涯と思想〕Ⅰ~Ⅲ』 : エドワード・クック著
中村妙子・友枝久美子訳、時空出版 (1993年)

・ 『看護覚え書』 : F.ナイチンゲール著、湯槙ます・薄井坦子他訳
第7版、現代社 (2011年)

・ 『ナイチンゲール著作集、全3巻』 : F.ナイチンゲール著

湯槇ます監修・薄井坦子他訳、現代社 (1974年~1977年)

・ 『新訳・ナイチンゲール書簡集』 : 湯槙ます・小玉香津子・薄井坦子他訳
現代社 (1977年)

・ 『統計学者としてのナイチンゲール』 : 多尾清子著
医学書院 (1991年)

・ 『ナイチンゲール言葉集』 : 薄井坦子編
現代社 (1995年)

・ 『ケアの原形論』 : 金井一薫著
現代社 (2004年)

  • 『看護小論集』 :ナイチンゲール著、薄井坦子・小玉香津子他訳
    現代社 (2003年)
  • 「ナイチンゲール病棟の再発見」 : 長澤秦
  • 「ナイチンゲール病棟にみる看護の原型」 : 金井一薫
    「綜合看護」(1979年) 第14巻・第4号
  • 「英国陸軍の死亡率」 : F.ナイチンゲール著、久繁哲徳・松野修訳
    「綜合看護」(1989年) 第24巻・第1号
  • 「フローレンス・ナイチンゲールの著作、その全貌」 : 小南吉彦
    ――複雑で錯綜する社会病理を看護の視座から解き明かす――
    現代社・「綜合看護」(2003年) 第40巻・第1号
  • 「ナイチンゲールの7つの素顔」 : 金井一薫
    現代社・「綜合看護」(2009年) 第44巻・第3~4号
  • 『 Florence Nightingale At First Hand 』 :Lynn McDonald
    Continuum UK, 2010
  • 「実像のナイチンゲール」:リン・マクドナルド著

金井一薫監訳、 島田将夫・小南吉彦訳
現代社 (2015年)

・ 『実践を創る 新・看護学原論』 : 金井一薫著
現代社 (2012年)

 

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