『看護覚え書』の価値
多くの業績を残したナイチンゲールですが、その中で今日の看護や介護(ケア)の世界に直接的に最も大きな影響を及ぼしているのは、『看護覚え書』という書物の存在です。
『看護覚え書』(1859)は、多くの一般庶民の間で読まれました。
“社会的身分の低い女性たちによる看護”という当時の常識からみれば、忌み嫌われていた「看護」という表題が付いた本書が、発売当時にベストセラーになるとは思いも及ばないことでした。
「女性は誰もが看護師なのである」という冒頭の言葉で始まる本書は、現代の私たちが読んでもインパクトがあります。
女性は一生のうちに何回かは身内の健康上の責任を負うことになるので、女性たちは誰でも、看護という営みの、あるべき姿を学ぶべきであるとナイチンゲールは考えました。
現代では「人間は誰もが看護師である」と書き換えられるでしょう。
そしてその「看護の知識は、専門家のみが身につけうる医学知識とははっきり区別されるものである」とも述べています。
これほど明確に看護を位置づけた人は、ナイチンゲール以前にはいませんでした。
近代科学的看護はこの時点からスタートすることになります。
それはまた、看護師という仕事に新たな光が当てられた瞬間でもありました。
『看護覚え書』は第1版から第3版まで続けて出版されています。
家庭にあって身内の健康に気を配る女性たちに向けて、どうすれば病気に罹らないか、またどうすれば病気から快復させることができるかを説いた本書は、初版本は高価でしたから、発売当初は上中流階級の人びとを中心に広く読まれました。
各雑誌には書評も掲載され、著者が有名なナイチンゲールとあって、一大ブームとなりました。
翌1860年7月、第2版(改訂版)が出版されましたが、これは看護師や看護学生向けに補章が書き加えられたもので、装丁も美しく読みやすくなっています。
ナイチンゲールはこの改訂第2版を完成版としたようです。
さらに1861年4月に第3版「労働者階級版」を発刊しました。
彼女は本書を啓蒙書として位置づけ、より多くの読者に届けようと考えたのです。
第3版は第2版のダイジェスト版で、安い価格で販売され、より多くの人びとの手に渡っていきました。
こうして『看護覚え書』は誰でも読める本として流布していきましたが、そのことによって世間における看護の価値や地位は高まっていったのです。
本書は英国社会に長い間根づいていた暮らしのあり方に関する社会的偏見と悪しき風習を打ち砕く本にもなりました。
人類史上初の科学的看護論
では、『看護覚え書』とはいったいどのような内容をもつ本なのでしょう。
これは一言でいえば、人類史上初めて“看護の定義”が書かれた書物だといっても過言ではありません。それほど価値が高い1冊です。
『看護覚え書』のなかで、ナイチンゲールが強調したのは、看護(ケア)の実践を行うにあたっては、“生命の法則”・“自然の法則”を重視して、根拠に基づく行為をしなければならないということでした。
近代科学者としての眼をもち、物事を改善するにあたっては、実態を観察し、分析して、適切な対応をすることを基本に据えていたナイチンゲールです。
看護実践を行うに際しても、行為の裏付けとなる“からだのしくみ”を理解し、観察と技(art and science)によって適切な方法を駆使していかなければならないと考えたのです。
『看護覚え書』が出版された1860年頃の英国では、ようやく医師法が制定され、近代医学体系が整いつつある時代でした。
しかし人々はまだ迷信や占いや言い伝えなどに頼り、現代の私たちからみれば根拠の薄い、手荒な手当てが行われていたのです。
人々の日々の暮らしは、基本的には伝統的な様式にしたがって営まれていました。
特に病気になった時には、祈祷や占いなど超自然的な力にすがったとしても不思議ではありません。
そうした環境にあってナイチンゲールは、看護は信仰や情熱だけでできる仕事ではなく、病気になった時には自然治癒力が体内で働いているのだから、いのちの法則を学び、暮らしのあり方を再検討し、迷信や慣習などに頼らず、自然治癒力(自然の回復システム)の発動を助けるように、『看護覚え書』を通して健康的な暮らし方や、感染防止の基本を学んでほしいと願ったのでした。
『看護覚え書』のコア概念
『看護覚え書』では、<看護とは何か>について、その答えをずばり以下のように述べています。
「看護がなすべきこと、それは自然が患者に働きかけるのに最も良い状態に患者を置くことである」
「看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また食事内容を適切に選択し適切に与えること、こういったことのすべてを患者の生命力の消耗を最小にするように整えることである」
ここにナイチンゲールが説く看護(ケア)の基本概念が明示されているのです。
この文章のコア概念は、「自然が患者に働きかける(回復のシステムの発動)」と「生命力の消耗を最少にするように整える」です。
これらの文章の意味をつかみ取ることができれば、看護(ケア)のあるべき姿や実践の方向性がみえてくるのです。
この点について説明していきましょう。
<自然の回復過程を助ける>のが看護の仕事
ここではまず、ナイチンゲールがいう「自然とは何か」を理解しなければなりません。
ここでいう「自然(nature)」とは、私たちの「身体内部の自然」を指しています。
もちろん外界の自然も関係してきますが、まずは人間という生物に生まれながらに与えられた「いのちのしくみ」に焦点を当てて考えていきます。
私たちの「いのち」は常に、外界の変化や内部環境の変化に合わせて平衡(バランス)をとろうとしています。
気温が高ければ汗をかいて体温を下げ、寒ければ毛穴を塞いで体温を逃がさず、また体に害となるものを食べれば消化管は下痢や嘔吐によって排泄し、ウィルスなどの有害微生物が侵入すれば、免疫細胞たちが集団で闘いを挑んでやっつけます。
これら内在する“自然の力”を、<自然治癒力>とか<自然の回復システム>とよぶことができますが、体内に宿る諸々の力は、一時も休むことなく常時、内外の環境の変化に合わせて発動しているのです。
そのおかげで、私たちの身体を形成している37兆個の細胞は常に健康を保ち、たとえ症状・病状が出ても、元の姿に回復していくことを可能にします。
ナイチンゲールはこのプロセスを「回復過程(reparative process)」と名付けています。
ケアを提供する人はまず、私たちの体がもつ“自然の力”や“いのちのしくみ”を知って、その力が体内で有効かつ強力に発動するように助けなければなりません。
そのためには、医師たちのように直接身体内部に治療という形で介入(注射や外科手術など)するのではなく、生活を健康的に整えることによって、体内の治癒力が発動しやすい環境、条件を創るのが看護(ケア)の仕事ということになるのです。
これが「自然の法則」や「生命の法則」を重視したナイチンゲールの考え方です。
“からだのしくみ”や“いのちのしくみ”がわからないと、どのようにして生活を整えたり工夫したりすれば良いのか、どのような看護(ケア)が有効なのかを導くことはできません。
例えば、インフルエンザに罹った人へのケアの基本は?
インフルエンザなどの感染症に罹っている人を想像してみてください。
インフルエンザウィルスが体内に侵入すると、その人の体内では、免疫細胞たちがフル回転してウィルスに対抗し、除去しようと働き出します。
しかし一方では、いつもなら活発に活動している消化器系や運動器系は、その回復のシステムが最大限に機能するのを助けるために、できるだけ自らの活動を活性化させないように抑制をきかせます。
このとき症状として自覚するのは、呼吸の促進、発熱、関節痛、食欲不振、倦怠感などでしょう。
そのような人を看護(ケア)するにあたっては、まずは患者を酸素を十分に取り込めるように換気を良くした部屋に休ませ、消化の良いものを選び、食べられる時間を観察して提供します。
そしてできる限り動き回らないように安静を保たせ、痛みや発熱へのケアを怠りません。
さらに話しかける声や周囲の音に留意し、ちょっとした気分転換ができるような工夫をし、眠れるようにベッドを整え、解熱と同時に汗が出たら、シーツや寝巻きを取り替え、身体を拭いて水分を補い、身体が冷えないように暖かくし、体内の回復のシステムの発動を助けます。
これがインフルエンザに罹った人への基本的な看護(ケア)です。
逆の環境を考えてみてください。
騒がしい部屋、換気の悪い部屋で休み、食事には気を使わず、普段どおりの仕事をして動き廻っているとしたら、免疫力は総力を結集して治癒過程を導くことができず、加えて循環器系も消化器系も、すべての臓器が必死になって日常生活を支援するように活動してしまい、体内の回復のシステム全体が適切に働かず、状態は改善されることはありません。
むしろさらに悪化してしまうでしょう。
このように看護(ケア)という行為には、その行為の裏付けが必要です。
『看護覚え書』を通して、<看護とは回復過程を助けることである>と明言したナイチンゲールの考え方は、現代の生命科学の知識を使えば楽に理解することが可能です。
<生命力の消耗を最小にするケア>とは?
次に、もう1つのコア概念について説明しましょう。
ここでは「生命力の消耗を最小にする」という言葉の意味を正確に理解することが大切です。
これは先に述べた“いのちのしくみ”にそってケアをしなければ、体内の自然の回復システムや回復過程が上手く働かず、途中でその力が妨害されたり、働かなくなったりすることを防止するための視点です。
例えば先のインフルエンザで発熱がある場合を考えてみましょう。
身体は汗を出して解熱させようとしますが、そのとき汗を吸収した寝衣やシーツ類を取り替えずにいれば、汗が浸みた寝具類によって身体が冷えてしまい、免疫力を下げさせてしまいます。
解熱時のケアは、まずは部屋を暖かくすること、寝具類の交換と同時に身体を清拭することです。
こうしたケアが不足すれば「生命力は消耗し、回復過程を妨げる」のです。
また、例えば介護度5の寝たきりに近い方に対して、ほとんど寝かせたままにして、太陽の光もなく、外の新鮮な空気も吸えない閉鎖的な環境においたとしたら、筋力はますます衰え、臓器を作る細胞たちの活性化も起きませんから、変化のない淀んだ環境はそれ自体が「生命力の消耗」につながります。
このように、ナイチンゲールの看護(ケア)の定義を理解していると、日常のケアのあり方を考えるうえで大いに参考になります。
各論で述べていることは現代人も守るべきこと
『看護覚え書』では、「序章」と「おわりに」の章において、先に述べました看護(ケア)のコア概念が述べられていますが、中間の「第一章」から「第13章」の中で各論が展開されています。
各論の内容は総論と異なり、極めて具体的です。
内容を少し紹介しましょう。
第1章のタイトルは「換気と保温」です。
この章でナイチンゲールは、看護が第一にしなければならないことは、「患者が呼吸する空気を、患者の身体を冷やすことなく、屋外の空気と同じ清浄さに保つことなのである」と述べています。
つまり看護の最重要事項として、「換気」を挙げたのです。
そして換気を適切に行うには窓の構造や家屋の構造をも見つめ直し、どの窓とどのドアをどのように開ければ良いか等を教えています。
同時に室内の空気を清浄にするには、部屋の清潔も欠かしてはならないと強調します。
まさにコロナ禍の今日に力説されたテーマと一致しています。
第2章は「住居の健康」です。
「住居の健康を守るためには、5つの基本的な要点がある」として、清浄な空気、清浄な水、効果的な排水、清潔、陽光の5点を挙げています。
身体の健康を維持するには、なによりも住まい自体が健康でなければなりません。
病気は暗くじめじめした住居、ゴミが山積された住居、また清浄な水が手に入らない住居からなど発生します。
この指摘は時代が変わっても変わることのない、人間の暮らしにとっての基本で、永遠のテーマとなるでしょう。
第5章の「変化」では、病人には日々の暮らしの中に“こまごまとした変化”がいかに必要であるかについて述べています。
健康人がごく普通に得ている日々の「変化」は、病気になると自分の周囲から消えてしまいます。
いわゆる“閉じこもり現象”が生じるのです。そこで患者には日々、目に映るものの変化や心地よい音や臭いによる刺激、人々との交わりによるコミュニケーションなどを創出し、提供することが看護(ケア)となるのです。
この章では、「変化」は回復を促す重要な手段であることを教えてくれています。
各論を通して、ナイチンゲールは“新鮮な空気” “適切な食物”そして“こまごまとした変化”の3点は、看護者が患者に提供するものとして欠かせないものだと断言しました。
なぜならそれらは病気になった患者自らが選んだり、取り込んだりすることができないからなのです。
ここに看護師の役割と存在意義が見えてきます。生活のお世話をする看護師は、病気や老いや障害を抱えたことによって、自らの力で生活を営めなくなった人々の頭と手足の代行して、暮らしを整えるいくという役割を担うのです。
『看護覚え書』の各論では、健康的な日常を送り、また適切な療養生活を送るために不可欠な生活要素について、説得力をもって語りかけています。
しかもその教えは決して抽象的ではなく、極めて具体的です。
こうして『看護覚え書』は、すべての女性が学ぶべき本として認知され、「一家に一冊、看護覚え書を!」というかけ声とともに、広く世間に広がっていったのです。
日本で読み継がれている改定第二版『 看護覚え書 』
『看護覚え書』の存在そのものは、おそらく世界の看護師たちは知っているでしょう。
しかし残念なことに、現代においてリプリントされているのは初版本のみであり、ナイチンゲールがもっとも力を入れて改訂した第2版をリプリントしている国は多くはありません。
その点、日本においては1968年に初版本が、そして1973年には改訂版(第2版)が現代社から翻訳され、それ以降『看護覚え書』は日本の看護学生たちの必読書として定着しています。
筆者が知る限り、改定版をこれほど読み込んでいる国は、日本以外にはありません。
『看護覚え書』は古い時代に書かれた本です。
しかしその根底を流れている看護思想は、時代や国を越えて色褪せることなく、看護の真髄を教え、実践のあり方を導く指導書として存在し続けています。
人類が生きて生活を営んでいる限り、“健康と暮らし”の問題は切り離せません。
さらにこれからはますます超高齢社会になり、看護(ケア)を必要とする人々で溢れます。
だからこそ、今再び、「一家に一冊、看護覚え書を!」という時代がやってきているように思います。
ケアに躓いたら『看護覚え書』を紐解いてみてください。
(金井 一薫著『ナイチンゲール よみがえる天才9』筑摩書房、2023年刊より転載)
1960年代から読み継がれている現代社版の『看護覚え書』(改訂第8版)2023年
参考文献:『新版 ナイチンゲール看護論・入門』、現代社、2019年